2011年12月24日

ミシェル・レヴィ著『iPodは何を変えたのか?』(3) PERFECT DJ

iPodは何を変えたのか?iPodが自分にとっての完全なDJになれば、本物のDJなんて要らない。シャッフルはランダムに曲順を決めているに過ぎないが、そこに魔法を感じている人がいる。しかし、そこに本当の意図が関わるとしたら。つまり、本当に自分の趣味と、そのときの気分に合った曲を選んでくれるとしたら。そういう魔法みたいなことをもくろむ企業が実際に動き出している。DJのセンスや趣味をコンピュータに置き換えようという、新しい音楽産業の動きだ。

少し前にexquiseさんがiTuneのGeniusという機能を紹介してくれたが、Geniusを起動させると、ライブラリに入っている曲全体を分析して、その人の好みだと思われる曲を探し出す。たとえばある曲を選択すると、その曲に相性がよさそうな曲をライブラリのなかからピックアップして新しいプレイリストを作成してくれたり、ライブラリにないお薦めの曲を探し出してくれたりする。

GeniusはデジタルDJの第一歩なのだろう。「iPodは何を変えたのか」が書かれたときはGeniusはまだ存在していなかったのだろうが、デジタル音楽の分類・研究で商業的な成功を収めている小さな企業が紹介されている。Geniusと重なり合う話だ。これらの企業の究極の目標は、慣れ親しんだ曲の快適さと飽きさせない多様性を巧みにブレンドしたパーフェクトな曲順で、リスナーの耳にデジタル音楽を届けることなのだという。

こうした会社が音楽を分類するための2つのアプローチがある。ひとつは数十人の音楽専門家を雇い、手(耳)作業で行う。専門家たちはブルース、ポストパンク、オルタナティブなど、小さなカテゴリーのマニアで、自分が引き受けた領域に関してはすべてを知り尽くしている。彼らは担当のカテゴリーの音楽をすべて聴きとおし、さらなる詳細なカテゴリーにしたがってカタログ化する。これが集められ、体系的なデータベースになる。コンピュータ・アルゴリズムがそれを活用して、適切な曲を適切なタイミングで再生するのだ。

もうひとつは、音楽ファイル自体を数学的に分析する。音楽は感情を初めとする様々な感覚的な要素の集合体で数値化なんて不可能だという反論もあるだろうが、現在、音楽ファイルの中にある謎を解き明かし、音楽の究極的な本質を探し当てるために、業界挙げて競い合っているのだと言う。それを目指して設立された会社のひとつは、音楽のDNAを解明すること。すでにタワーレコードなどと契約して、サイトの顧客にお薦めプレイリストを提供しているという。

その会社には音楽理論を専攻した30人の音楽アナリストがいる。彼らは新しい曲が届くたびに2、30分かけて集中的に分析を行い、400種類もの変数=遺伝子を確認する。歌声の感情的な傾向を特徴化するだけでも音色、ビブラート、ピッチ、レンジなど32種類に及ぶ。この方法論をすべての楽器に適用し、アナリストは曲を完全にデータ化する。この音楽のゲノム・プロジェクトを活用すれば、DJが聴き手の趣味に合わせてプレイリストを作る作業を完全に自動化できるというわけだ。

Apple iPod nano 8GB シルバー MC525J/AMITメディア研究所のブライアン・ホイットマンとコロンビア大学デローザ研究所のダニエル・エリスが共同執筆した「自動レコード批評」がこの分野の最も重要な研究成果だという。この論文は、デジタル形式の楽曲ファイルの解析紀結果とインターネット上で検索した音楽関連テキストの意味解析を組み合わせることで、該当する曲やアルバムを聞かなくても「適切なレコード批評をコンピュータで自動生成できる」と主張している。ロック評論家の文章は読み物や思い入れとしては面白いが、実際にその音楽が自分の好みにあうのかは確かに別の問題である。そういうものを断ち切り、「将来的な検索作業のための意味論的な価値を最大化した」レビューが作成可能だというのだ。アメリカ的な本質主義、合理主義もここまで徹底されると唖然とせざるを得ない。

「(これらの音楽解析システムは)、歌詞のつながりやバンド間の系統的な関係を巧みに駆使したり、スムーズな曲のつなぎを行ったりすることで、曲が切り替わるたびに興奮させてくれるだろう。大好きなアーティストの最新曲や、まだ聴いたことがないけれど趣味にぴったりあうはずのバンドの曲が音楽コレクションに自動的に取り込まれ、運動を始めたらIPODが心拍数の上昇に気がつき、理想的なトレーニング向けのプレイリストを再生してくれる。そんなデジタルDJの時代がくるのもそう遠いことではないのかもしれない」

このように著者はデジタルDJの時代の到来を予想しているが、果たして音楽の本質は音楽の中にあるのだろうか。音楽の主導権は常に聴き手の側にあり、音楽とは聴き手と音楽との対話なのだ、とういう考え方もできる。聴き手にしても、そのときの状況や環境に大きく左右される。そういう外部の情報のすべてを取り込むのは不可能だろう。「心拍数が上昇」したのは運動を始めたからではなく、好きな女の子に出会ったからかもしれないのだ。

自分にとって心地よい音楽だけを「孤独に」聴き続ける。デジタルDJはそういうリスナーにとっては自分を見守ってくれる天使のような存在なのかもしれない。天使というよりは、子供の行動に先回りして世話を焼く母親みたいだ。ロック評論の文章が実際の音楽と直接関係ないにしても、それは音楽をめぐるコミュニケーションの重要な一部なのだ。音楽について話すとか、音楽によって人間関係が生まれるとか、その関係の中で考え方が変わるとか、嫌いだった音楽を見直すとか、そういうことを含めて音楽なのである。音楽のゲノム・プロジェクトはパーフェクトなお薦め音楽を提供するといいながら、リスナーを完全にコントロールしよういう欲望に基づいている。音楽を完全にデータ化できるという発想は、音楽に対する人間の反応もパターン化できるという決定論である。私のようなひねくれ者は、それだけですでに大きなお世話だと言いたくなる。音楽の本質は何よりも自由な感覚にあることを忘れてはいけないのだ。

とはいえ、私にとってパーフェクトなプレイリストを作ってくれるというならば、それがどんなものになるのか興味津々ではある。その興味とは、ゲーム的な興味であり(「次はこう来たか!」みたいな)、そしてどうやってデジタルDJの囲い込みから逃げるかである。


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2011年12月20日

ミシェル・レヴィ著「iPodは何を変えたのか?」(2) SHUFFLE

Apple iPod shuffle 1GB ブルー MB227J/A少し前に「SHUFFLE! SHUFFLE! SHUFFLE!」という記事を書いたが、この本を読んでさらにシャッフル機能の奥の深さを思い知らされた。スティーブ・ジョブズが iPod Shuffle をラインナップに加えたのは、予算の厳しい人たちにもiPodを使えるようにという思いだけでなく、シャッフル機能の人気ぶりに気がついていたからだった。

現実的な問題として、ひとりの人間が何千曲もの音楽を相手にできるわけがない。容量が爆発的に増えても、人間のキャパは変わらない。取り込まれる音楽の総時間は人間の日常的な時間を越えていて、一日中聴きっぱなしにしなければ時間が足りないだろう。そこでランダムに抜き取る形で、シャッフルは膨大なライブラリーと人間の日常をすり合わせる。これは過剰な情報に対処するひとつのモデルにもなるだろう。

あるユーザーたちにとって偶然が曲を選ぶことはロマンティックというより、むしろスリリングな体験なようだ。著者は「スティーリー・ダン問題」に悩まされていた。それは彼のiPodがスティーリー・ダンを贔屓しているとしか思えないということだった。それを「NEWSWEEK」で記事にすると、「やっぱりそうなんだ」と多くの読者の賛同を得ることになった。シャッフルのランダム性には疑念が持たれていたのだ。シャッフルは本当に偏りがなく、公平に曲を選んでいるのか。著者は実際にスティーブ・ジョブズに聞いてみた。ジョブスが担当のエンジニアに答えさせたところによると「シャッフルの再生曲順は絶対にランダム」ということだった。

しかし、シャッフルが本当にランダムだと信じているユーザーは少なかった。あるユーザーはビートルズを全曲入れているのに、Get Back ばかりかけると言い、別のユーザーは夏なのにクリスマスソングしかかけないと不平をもらす。最も興味深いのは、iPodには状況に合わせて曲を選ぶ神秘的な力があると信じている多くのユーザーがいたことだ。

これに対して専門家は次のように答える。

「人間はしばしば、本当はランダムな出来事から何らかのパターンを読み取ったり、ときには、無理やりこじつけたりするものなんです。音楽のような感情を喚起するものならなおさらです」

「私たちの脳はランダムさを理解するようにできてはいないんです。何しろ、人間はランダムな分布に対応できないことに付け込んだ巨大産業だってあるくらいですから。そうギャンブルのことですよ」

著者は「勝負強いバッター」の例を挙げて説明している。打率の高いバッターはいても、勝負強いバッターなどいない。たまたま決定的な場面で打ったヒットが人々の記憶に印象深く焼き付けられるだけなのだ。考えてみれば、ランダムな状態から、単純なパターン、複雑なパターンへと生成、進化してきたのが人間だ。ゆえに常にランダムなものに何らかのパターンを読み取らざるをえないのかもしれない。白い壁をずっと眺めていると、何か模様やイメージが浮き出てくる。それが人間の知覚である。これは健全な知覚の働きであり、そこに何も見出せないことは人間にとって自我が融解してしまうような恐怖なのだ。

多彩なギターの織り成すツェッペリンの The Song Remains the Same のあとに、ブラームスの交響曲が第2楽章から始まり、コルトレーンのスピリチュアルなサックスがそれを切り裂く。シャッフルが絶え間なく生み出す音楽のコラージュを私たちは違和感なく受け入れている。私たちは日常的に「雑種的」な音楽を「雑食的」に聴いている。音楽が LP や CD のような物理的なメディアパッケージの制約から離れ、アルバムという形式はおろか、「ジャンル分けにしたがって音楽を聴く」という行為も過去のものにしてしまった。ある意味、シャッフルはジャンルや国境を横断する(ワープする?)文化の旅でもある。膨大な音楽データベースはグローバリゼーションの産物であり、世界中の音楽のコレクションとネットワーク化によってもたらされた。シャッフルを通して、私たちは拡大し混乱を極めている世界そのものを聴いているのだ。

世界は拡大していっても、人間のキャパは変わらない。私たちの現実は忙しくなっていくばかりだ。世界から届く無数のニュースと同様に、私たちはその中から適切な情報を選ばなくてはならない。しかし、いちいち吟味している暇はない。そのあいだを効率的に、自動的に媒介するシステムが常に必要とされている。シャッフルはそれを象徴しているかのようだ。

そのシステムは自己の形成にまで介入している。iPod は自分の好きな音楽を詰め込むという意味で、自分の大切な記憶の貯蔵庫と言える。音楽=記憶を使って自己という統一された物語(=アイデンティティー)を作るには、iPod の中の情報は多すぎる。私たちはアイデンティティーをあきらめ、シャッフルを使って過剰な情報を過剰なままに生きる方向に賭ける。シャッフルは決して情報を減らしているわけではない。自己という惑星の周囲を無数の音楽=記憶のかけらをスペースデブリのように高速で回転させるのだ。バラバラの情報はフラッシュバックするように、何の脈絡もなく自分の前に現れる。そうやって見せかけの統一感を作っているが、その中身は混乱と矛盾に満ちている。この時代は何よりも「最小限の時間で、最大限の情報を得ること」を目標に突き進んでいる。それは必然的に過剰な情報を過剰なままに生かす新しいシステムをさらに要請していくだろう。




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2011年12月14日

ミシェル・レヴィ著「iPodは何を変えたのか?」(1) IDENTITY

私は地下鉄に乗っていた。私の向い側には真っ赤なワンピースを着た若い女が脚を組んで座っていた。彼女は目を閉じて音楽を聴いていた。例の白いイヤフォンで。それはすぐに見分けがつく。周囲と決して馴染まない、宇宙船の表面みたいな独特の光沢と質感がある。イヤフォンから延びた2本のコードが彼女の胸元でつながり、赤い生地の上を通り、彼女が右手で握っているipodにまで届いている。単色のワンピースのシンプルなデザイン。彼女の持っているのは白いiPodだけ。

Apple iPod touch 32GB MC544J/A彼女は眠りから覚めるようにゆっくりと目を開けた。私と目が合った瞬間、彼女は途方もない企みを思い付いたかのように、愉快そうな笑みを浮かべた。そして、いきなり立ち上がると、手に握っていたiPodのスクリーンを私の目の前に突きつけた。私はいやおうなく彼女の「現在プレイ中」の曲名を見せつけられる羽目になった…。

今度は彼女が私のジャケットのポケットを指さし、私のiPodを見せるように催促した。私は彼女のことが気になって、自分の聴いている音楽のことなどすっかり忘れていた。そのときちょうど曲が切り替わった。私はシャッフルで聴いていて曲をコントロールできない状態にあった。流れてきたのは運悪く、そのうち削除しようと思っていた・・・だった。彼女の曲に比べ、それが恥ずかしくなるほど凡庸なことを知りつつ、私はしぶしぶiPodを取り出した。

不意打ちとはいえ、私は完全に負けた。負けたというより、自尊心をズタズタにされたのだった。ドアが開き、サラリーマンの一群が乗り込んできた。赤い影はそのあいだを縫うようにして消えていった。


スティブン・レヴィ著「iPodは何を変えたのか?」に紹介されていたエピソードを日本に舞台を移し、私なりに小説風に脚色してみたのだが、NYの地下鉄線、LラインではこのようなiPod戦争が繰り広げられていたようだ。iPodで何を聴くか。それはアイデンティティーを賭した戦いなのである。ちなみに本書では女が聴いていたのは Rezillosというパンクバンド、男は Petshop Boysだった。

例えば、ブログの文章やデザインも、その人間の趣味やセンス、考え方や問題意識を端的に表すだろう。初対面の人に「こういうブログやってます」とURLを教えると、手っ取り早く自分のことを説明できる。ブログの媒介で共通の話題が見つかり、仲良くなれることもある。しかし、iPodはブログ以上の効果を発揮するらしい。

あなたはどんなプレイリストを作っていますか?
あなたはそれを人に見せたことがありますか?

Apple iPod nano 16GB グラファイト MC694J/AiPodは自己充足的な閉じたメディアとして語られることが多い。それはiPodの可能性を十分に引き出していない、つまり使いこなしていないからなのだ。「iPodは何を変えたのか?」にはiPodを交換したり、iTunesを見せっこしたりする楽しさが無邪気に綴られている。iTunes自体にそれを後押しする機能がいろいろ備わっている。iPodの本質がナルシスティックに自分のライブラリーを楽しむことではなく、ライブラリーの交換にあるとすれば、iPodから見える風景もずいぶんと変わってくる。

北京オリンピックでも自分の出番の直前まで音楽を聴いている選手が目に付いた。スポーツ選手たちの聴いている音楽はつねに詮索好きな記者たちの関心の的になっているようだ。アメリカでは政治家やセレブのiPodの中身も話題になる。もちろんブッシュ大統領やローマ法王も例外ではない。「あなたの・・・見せてください」というiPodの中身をテーマにした番組も多い。確かに他人のiPodの中身は気になる。誰とでもいいというわけではないが、iPodの交換はきっと魅惑的な体験なのだろう。

入手の難しい音楽で音楽マニアを評価する時代は終わった。もはやレアな音源を見つけること自体がレアになっている(youtubeもまたレア音源の宝庫である)。iPodの時代は、膨大な音楽データベースの中から吟味を重ねて曲を精選し、究極のプレイリストを作ることが音楽マニアの証なのだ。

それは自分を作ることでもある。つまりアイデンティティーだ。アイデンティティーはもはや人間関係や社会的な役割の中で形成されるのではない。レディメイドのものを選び取って形にする。再編集することもできる。またアイデンティティーは基本的に他者を意識する。IDカードを提示するように、他者の承認がなければアイデンティティーの意味がない。

いずれにせよ、これは一大事だ。誰かがあなたのiPodのクリックホイール(あの丸い部分)を回してライブラリーに目を通すだけで、あなたは丸裸にされるのだ。あなたはプレイリストよって採点され、評価されてしまう。他者の視線はプレイリストの編集にも影響を及ぼすだろう。好きでもない、ちっとも良さがわからない曲を、見栄をはるために、自分の評価を高めるために入れるかもしれない。「iTunesのインターフェイスは人物に対する印象形成に決定的な役割を果たしている」という正式な社会学の調査も出ているくらいだ。社会学者アーヴィング・ゴッフマンの言う「印象操作」だ。

iPodを聴いている素敵な女性を見つけたとき、彼女のどんな秘密よりも、彼女のiPodの中身を知りたい、という欲望もわかる気がする。著者が言うように、音楽ライブラリーの交換はエロティックな行為と言えるかもしれない。それがうまくはまったとき、とてつもない恋に落ちるかもしれない。音楽の趣味が合う友だちを見つけるのは意外に難しいものだ。しかし、音楽ライブラリーの交換は初対面であっても即座にふたりの共通点をあぶり出す。ふたりの距離は一挙に縮まるのだ。

音楽ほど感性に直接訴えるものはないし、歌には直接的な喚起力がある。好きな音楽に満たされる時間は自分が最も自分らしく感じられるときだ。音楽は他人が作ったものだとしても、それに対するセンシビリティーを持っているのは自分なのだ。また自分だけのプレイリストを作ることはDJ的、REMIX的な創造行為であることは言うまでもない。何よりも音楽という形式はコンパクトで、コントロールしやすい。小説や映画をクリックホイールでコントロールするなんて、あまり想像できないだろう。

著者は、アイデンティティーを賭した戦いだとか、エロティックな行為だとか、さんざん煽っておきながら、最終的にライブラリーの交換がもたらすものは「一種の学びの機会」なのだと謙虚に言っている。それは他者によって自分の身の程を知ったり、自分を修正する機会なのだ。それはiPodの社会的な機能と言えるだろうが、これはアメリカだから言えることかもしれない。日本でiPodはこの国のマニュアル化されたコンビニエンスなシステムと安易にシンクロしているように見える。

とはいえ、音楽によるコミュニケーションの可能性は確実に開かれている。すべては「使いこなし」にかかっているのだ。私はiTunesの見せっこはしたことがないが、よくメールにyoutubeの動画のURLを貼り付けて話のネタにする。そうすると意思疎通がスムーズになる。本当のことを言えば、プレイリストを見ただけで、相手がどんな人間なのかわかるはずがない。音楽的な共感は重要なインスピレーションになるが、言葉の介在も不可欠なのだ。音楽の素晴らしいところは、共感と言葉の双方の回路によって、その相乗効果によって繋がりあえることだろう。


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2011年12月03日

「西洋音楽史 - クラシックの黄昏」

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)中公新書の古色蒼然とした表紙に、「西洋音楽史」というタイトルがつけられていると、これだけでも読む気が失せるという人もいるかもしれない。しかし副題の「クラシックの黄昏」に注目しよう。

これまでの「西洋音楽史」と銘打った本の多くは例外なく、各時代の専門家による分担執筆だった。これらは専門家に対して正しい専門的な知識を万遍なく提供するだろう。しかし、様々な関心やつながりからクラシックについて知りたいと思っている普通の人、例えば、「のだめカンタービレ」を読んでクラシックに興味を持った人が、それを理解できるだろうか。理解できる、できない以前の問題として、そういう「使えない」音楽史に意味があるのだろうか。ある種の正しさはあるかもしれないが、ナンセンスな専門知識ではないのか。そういう問いが著者をしてこの本を書かせたようだ。

「事実に意味を与えるのは、結局のところ、<私>の主観以外ではありえず」、「歴史を語ることは常に<私>との対話なのである」と著者は言う。つまり、絶対的なクラシックのあり方、正しいクラシックの聴き方などありえない。聴く人それぞれの関心があり、それぞれのクラシックがあるということだ。この本の形式は「私はこういうふうに考えました。あなたはどうですか」という問いかけである。もちろん著者のような研究者が書くのと、素人が書くのとでは情報量や正確さに差があるだろう。しかし、それは「正しい西洋音楽史」を読者に注入しようという態度ではなく、「私が提示した情報や考え方をもとに、あなたなりにクラシックを楽しみ、考えてください」と読者にボールが投げられている。そして読者はそのボールをどこかに投げ返すことが期待されているのだ。

シューマン:交響曲第4番 バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音)

これまでの「西洋音楽史」は、クラシック以外の音楽ジャンルに言及することはなかった。なぜなら、他の「低俗な音楽」を排除し、それと区別することで権威のある高尚な音楽として自らを位置づけていたからだ。それゆえに、クラシックが現在どのような形で聴かれているのか、他のジャンルとはどのような関係にあるのか、というクラシックの置かれている社会的な、同時代的な条件が全く無視されていたのである。この本が興味深いのは、クラッシク以外の音楽に触れていること、そしてクラシックの現在に対するシビアな認識と、いかにクラシックが生き残るかという未来について言及されていることである。これまでの西洋音楽史においてクラシックは不朽のものであり、「黄昏」や「危機」とは無縁だったのだ。

今日のクラシックのレパートリーのほとんどは19世紀後半から20世紀初頭にかけて確立されたものだが、20世紀後半に入ると、人々の関心は誰が何を作るか(つまり現代音楽への関心)から、誰が何を演奏するかに関心が決定的に移ってしまった。しかし、今では名曲のレパートリーの決定版はほとんど出尽くしており、巨匠の時代も去り、ネタ枯れの気配が濃厚だ。またクラシックの進化形である前衛音楽(=現代音楽)を支持する公衆はもはや存在しない。100年前に作られたシェーンベルクの作品から、戦後の前衛音楽に至るまで演奏会のレパートリーに定着した作品は皆無で、現代音楽は公式文化から一種のサブカルチャーと化している。しかし、著者はそれをことさら嘆かない。それどころか「もし前衛音楽にまだ可能性があるとすれば、それはサブカルチャーに徹することを通してのみ可能かもしれない」とまで言う。これは文学などのハイカルチャー全般にも通じる本書の最も重要な指摘である。

マイ・フェイヴァリット・シングス(+2) ラバー・ソウル

私たちはクラシックと他の音楽の同時代性についてあまり注意を向けないが、確かにそれらは明らかに同じ時代の空気を吸った産物なのだ。例えば、フルトベングラーが没した1954年に、エルヴィス・プレスリーがデビュー。翌、1955年にはグレン・グールドが「ゴルトベルク変奏曲」で鮮烈なレコードデビューを果たし、ジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・クインテットに参加する。ジョン・ケージが初来日した1962年にはビートルズがレコードデビューしている。

Kind of Blue Django

クラシック以外では、著者はとりわけモダン・ジャズを評価する。モダン・ジャズは娯楽音楽の域を超え、一種の芸術音楽の路線を歩んだ。前述のマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、そしてMJQにおいて即興は見せかけにすぎず、演奏はその細部まで緻密に計算されている。マイルスのモード・ジャズにはフランス印象派を連想させる旋律が現れるし、コルトレーンのポリリズムはストラヴィンスキー並の複雑さなのだ。それだけではない。モダン・ジャズは、20世紀後半において、「作曲上の様々な実験」と「過去の伝統の継承」と「公衆との接点」との間の媒介に文句なしに成功した唯一のジャンルなのである。公的な支援を受けず、独自の力であれほどの表現に到達し、あれほどの支持を集めたことは、クラシック以上の成果であり、ほとんど奇跡に近い現象とも言える。この事実に先ほどの「サブカルチャーに徹するしかない」という提言が反響するのである。

Glenn Gould ‐ Goldberg Variations
John Coltrane - My Favourite Things
Miles + Coltrane - So What

かつて「作曲上の様々な実験を試みること」、「過去の名作を立派に演奏すること」、「公衆にアピールする曲を書くこと」は決して分離した活動ではなかった。例えば、フランツ・リストは時代の最先端を行く作曲家であり、ベートーベンを演奏する巨匠ピアニストであり、現代のロックスターに比されるような人気アーティストだった。
(続く)

先回、フランツ・リストが三拍子そろった音楽家だったと書いたが、3つの要素のバランスが崩れ、いずれかが突出するようになると、たちまち批判の対象になる。前衛作曲家のように作曲上の実験にこだわりすぎると、「公衆を置き去りにしたひとりよがり」と言われ、クラシックのレパートリーばかり演奏していると、「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」と言われる。そして一般受けを狙い、人気が出ると「公衆との妥協」とか「商品としての音楽」と言われる。しかし、これらは19世紀になって花開いた音楽の可能性がもたらした結果なのである。音楽家はパトロンの好みに束縛されることなく、自分の好きなように音楽を書き、過去の音楽を次々に発掘することでレパートリーが著しく拡大し、楽譜の普及や演奏会制度の発達によって多くの人々が音楽を自由に演奏し、音楽と接点を持つことができるようになったのである。

「現代(前衛)音楽がサブカルチャーに徹すること」のは難しいだろうが、いわゆる「過去のレパートリーを再演するクラッシク」も一種のサブカルチャー化によって生き延びようとしている。「のだめカンタービレ」もJ-Classicも、サブカルチャー化による生き残り戦術である。J-Classicは、日本人演奏家によるクラシック音楽、特に伝統的な枠を超えた新しい試みに積極的な若手アーティストたちによるクラシック音楽のことだが、まさに「名曲のレパートリーの決定版がほとんど出尽くし、巨匠の時代も去り、ネタ枯れの気配が濃厚」な状況で、レコード会社が仕掛けたものだった。J-Classicはアイドル歌手のように演奏家のヴィジュアルを前面に出す戦術で知られているが、それは明らかにポピュラー音楽からの流用である。

しかし、すでに20世紀の前半にすでにテオドール・アドルノが「クラシックをヒット曲のように、指揮者をスターのように扱う」と商品化したクラシックの堕落を嘆いている。著者は、ポピュラー音楽の大半は、特に旋律構造や和声や楽器の点において19世紀ロマン派の音楽を踏襲し、宗教なき時代に「市民に夢と感動を与える」というロマン派的美学を引き継いでいるというが、一方でクラシックは明らかにポピュラー音楽の資本主義との親和的な側面を取り込んできたのである。従来のクラシックを聴く重々しい身振りは失われていくかもしれないが、それによって新しい聴衆にとっかかりを与えてきたのも事実である。

この問題を文学で考えるとき、ハーバーマスが公共性のモデルと考えた「文芸的公共圏」が思い出される。印刷技術と資本主義の発達によって、文学作品のラインアップが廉価版でそろい、多くの人々が文学に親しめるようになった。そして文学は議論を通して、より多くの人々をつなぐ重要な媒体として機能していたのである。一方で音楽家がパトロンから自立できたように、小説家は、新聞や雑誌などのメディアを利用し、自分の小説を売ることで自活できるようにもなった。

20世紀に入ると、そういうモダンな公共性に反旗を翻す形で小説的な実験が進む。そしてヌーボー・ロマンやメタ文学のようにひとりよがりな表現の隘路にはまり、ごく一部の言論空間でしか理解されないものになる。現状はどうだろう。大学の文学研究は相変わらず「過去の聖遺物」だけを対象にしているし、若い小説家たちは新しいかもしれないが、多くの人には共有されない個別的な状況を描く。一方でケータイを活用したケータイ小説や、アニメから派生した萌え系の新しい文学が生まれている。それらには相互的な接点や関心の共有もなく、島宇宙化している印象を受ける。幅広い関心の共有や共通感覚の媒体になりうるのは、今は文学よりも映画なのかもしれない。

BGM Reich Remixed

「生活世界の再帰的構成に必要な価値合意は、ハーバーマスの考えるような理性的な討議によってあたえられるのではなく、芸術やサブカルチャーなどの表現を通じて滋養されるコモンセンス=共通感覚に基づく。そのことは未だに古典的主題を反復するフランスやイタリアの小説や映画を見ているとよくわかる」(宮台真司、「ネット社会の未来像)」より)

宮台真司は「芸術やサブカルチャー」と言っているが、とりわけそれは映画である。宮台は古典的主題を反復する映画監督として、フランスのフランソワ・オゾン監督を持ち上げる。彼の作品は「表層的な見せかけに右往左往せずに、真の心を見極めろという伝統的なモチーフ」の変奏だと言うが、不知火検校さんが偶然にもクリント・イーストウッドについて、こんなことを書いてくれている。

「決して一作でそのテーマを解決させることはなく、飽きることなく繰り返しながら、イーストウッドはその問題に挑み続けているのではないだろうか。「本質的な思想家は唯一つの問題にだけ立ち向かう」とはハイデガーの言葉だが、まさにイーストウッドの新作映画は常に一つの「思想」として観客の前に到来してくる。このような映画が商業映画として大劇場で上映されているという事態は、100年を超える映画史の上でも奇跡的なことではないだろうか」(「パリで観るクリント・イーストウッド」)

まさにクリント・イーストウッドはフランツ・リストのような3拍子揃った映画監督なのである。古典的なモチーフを反復しながらも、新しい映画であり続け、同時に商業映画として多くの人々を動員するという離れ業をやってのけているのだ。

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再び音楽の話に戻るが、「現代音楽(前衛音楽)がサブカルチャーに徹する」以前に、すでにロックが現代音楽のサブカル化の役割を果たしてきた。「ロックはスポンジのようなものだ」と言ったのは、現代音楽と接点を持つ環境音楽の創始者、ブライアン・イーノだった。ロックは表現として柔軟性を持つと同時に、メディアとの親和性が高く、特に若い世代への伝染力が大きい。音楽テクノロジーの進歩を真っ先に取り込んでしまうのもこの分野である。ロックが現代音楽的な実験を取り込みながら、ポピュラリティーを獲得することに成功した例として、70年代のプログレッシブ・ロック、80年代のノイズ・ミュージック、90年代の音響派が挙げられる。ミニマル・ミュージックの大御所、スティーブ・ライヒなんかは、ダンス・ミュージックのコンテクストで再評価されている。

以前、「サントリーローヤルCM-ランボー編」でセゾングループが果たした80年代の文化的な役割について触れた。80年代のパルコ=セゾン文化は企業家=詩人であった堤清二によって仕掛けられたわけだが、「大衆消費社会を批判する前衛文化を、大衆消費社会の担い手である流通産業が積極的にフィーチャーしてみせる」という「矛盾を孕んだ文化戦略」と浅田彰がセゾングループの功罪を評している。浅田は矛盾と言っているが、企業家と詩人は共存しえたのである。

それと併走していた音楽シーンを挙げるなら、80年代には豊穣なインディーズシーンがあり、メジャーシーンでは「BGM」をリリースし、実験色を強めた YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)だろうか。何よりも坂本龍一が象徴的な存在だった。YMO が共振させたものは音楽にとどまらず、ファッションやアート、そしてマイナー文学や現代思想にまで及ぶ。音楽の前衛的な実験が、資本主義と決して矛盾することなく、むしろそれを逆手にとるように親和的に進められ、他のジャンルに波及しながら多くの若者の支持を集めたのである。先回言及したモダン・ジャズには及ばないが、これも3つの要素が奇跡的にかみ合った時代の偶発事と言えるかもしれない。浅田の言う「大衆消費社会を批判する前衛文化」とは先のアドルノの思想そのものだが、堤清二は「消費を通じての啓蒙」を実践した。同じ左翼系でも全くベクトルが逆だったのである。


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