2011年12月14日

ミシェル・レヴィ著「iPodは何を変えたのか?」(1) IDENTITY

私は地下鉄に乗っていた。私の向い側には真っ赤なワンピースを着た若い女が脚を組んで座っていた。彼女は目を閉じて音楽を聴いていた。例の白いイヤフォンで。それはすぐに見分けがつく。周囲と決して馴染まない、宇宙船の表面みたいな独特の光沢と質感がある。イヤフォンから延びた2本のコードが彼女の胸元でつながり、赤い生地の上を通り、彼女が右手で握っているipodにまで届いている。単色のワンピースのシンプルなデザイン。彼女の持っているのは白いiPodだけ。

Apple iPod touch 32GB MC544J/A彼女は眠りから覚めるようにゆっくりと目を開けた。私と目が合った瞬間、彼女は途方もない企みを思い付いたかのように、愉快そうな笑みを浮かべた。そして、いきなり立ち上がると、手に握っていたiPodのスクリーンを私の目の前に突きつけた。私はいやおうなく彼女の「現在プレイ中」の曲名を見せつけられる羽目になった…。

今度は彼女が私のジャケットのポケットを指さし、私のiPodを見せるように催促した。私は彼女のことが気になって、自分の聴いている音楽のことなどすっかり忘れていた。そのときちょうど曲が切り替わった。私はシャッフルで聴いていて曲をコントロールできない状態にあった。流れてきたのは運悪く、そのうち削除しようと思っていた・・・だった。彼女の曲に比べ、それが恥ずかしくなるほど凡庸なことを知りつつ、私はしぶしぶiPodを取り出した。

不意打ちとはいえ、私は完全に負けた。負けたというより、自尊心をズタズタにされたのだった。ドアが開き、サラリーマンの一群が乗り込んできた。赤い影はそのあいだを縫うようにして消えていった。


スティブン・レヴィ著「iPodは何を変えたのか?」に紹介されていたエピソードを日本に舞台を移し、私なりに小説風に脚色してみたのだが、NYの地下鉄線、LラインではこのようなiPod戦争が繰り広げられていたようだ。iPodで何を聴くか。それはアイデンティティーを賭した戦いなのである。ちなみに本書では女が聴いていたのは Rezillosというパンクバンド、男は Petshop Boysだった。

例えば、ブログの文章やデザインも、その人間の趣味やセンス、考え方や問題意識を端的に表すだろう。初対面の人に「こういうブログやってます」とURLを教えると、手っ取り早く自分のことを説明できる。ブログの媒介で共通の話題が見つかり、仲良くなれることもある。しかし、iPodはブログ以上の効果を発揮するらしい。

あなたはどんなプレイリストを作っていますか?
あなたはそれを人に見せたことがありますか?

Apple iPod nano 16GB グラファイト MC694J/AiPodは自己充足的な閉じたメディアとして語られることが多い。それはiPodの可能性を十分に引き出していない、つまり使いこなしていないからなのだ。「iPodは何を変えたのか?」にはiPodを交換したり、iTunesを見せっこしたりする楽しさが無邪気に綴られている。iTunes自体にそれを後押しする機能がいろいろ備わっている。iPodの本質がナルシスティックに自分のライブラリーを楽しむことではなく、ライブラリーの交換にあるとすれば、iPodから見える風景もずいぶんと変わってくる。

北京オリンピックでも自分の出番の直前まで音楽を聴いている選手が目に付いた。スポーツ選手たちの聴いている音楽はつねに詮索好きな記者たちの関心の的になっているようだ。アメリカでは政治家やセレブのiPodの中身も話題になる。もちろんブッシュ大統領やローマ法王も例外ではない。「あなたの・・・見せてください」というiPodの中身をテーマにした番組も多い。確かに他人のiPodの中身は気になる。誰とでもいいというわけではないが、iPodの交換はきっと魅惑的な体験なのだろう。

入手の難しい音楽で音楽マニアを評価する時代は終わった。もはやレアな音源を見つけること自体がレアになっている(youtubeもまたレア音源の宝庫である)。iPodの時代は、膨大な音楽データベースの中から吟味を重ねて曲を精選し、究極のプレイリストを作ることが音楽マニアの証なのだ。

それは自分を作ることでもある。つまりアイデンティティーだ。アイデンティティーはもはや人間関係や社会的な役割の中で形成されるのではない。レディメイドのものを選び取って形にする。再編集することもできる。またアイデンティティーは基本的に他者を意識する。IDカードを提示するように、他者の承認がなければアイデンティティーの意味がない。

いずれにせよ、これは一大事だ。誰かがあなたのiPodのクリックホイール(あの丸い部分)を回してライブラリーに目を通すだけで、あなたは丸裸にされるのだ。あなたはプレイリストよって採点され、評価されてしまう。他者の視線はプレイリストの編集にも影響を及ぼすだろう。好きでもない、ちっとも良さがわからない曲を、見栄をはるために、自分の評価を高めるために入れるかもしれない。「iTunesのインターフェイスは人物に対する印象形成に決定的な役割を果たしている」という正式な社会学の調査も出ているくらいだ。社会学者アーヴィング・ゴッフマンの言う「印象操作」だ。

iPodを聴いている素敵な女性を見つけたとき、彼女のどんな秘密よりも、彼女のiPodの中身を知りたい、という欲望もわかる気がする。著者が言うように、音楽ライブラリーの交換はエロティックな行為と言えるかもしれない。それがうまくはまったとき、とてつもない恋に落ちるかもしれない。音楽の趣味が合う友だちを見つけるのは意外に難しいものだ。しかし、音楽ライブラリーの交換は初対面であっても即座にふたりの共通点をあぶり出す。ふたりの距離は一挙に縮まるのだ。

音楽ほど感性に直接訴えるものはないし、歌には直接的な喚起力がある。好きな音楽に満たされる時間は自分が最も自分らしく感じられるときだ。音楽は他人が作ったものだとしても、それに対するセンシビリティーを持っているのは自分なのだ。また自分だけのプレイリストを作ることはDJ的、REMIX的な創造行為であることは言うまでもない。何よりも音楽という形式はコンパクトで、コントロールしやすい。小説や映画をクリックホイールでコントロールするなんて、あまり想像できないだろう。

著者は、アイデンティティーを賭した戦いだとか、エロティックな行為だとか、さんざん煽っておきながら、最終的にライブラリーの交換がもたらすものは「一種の学びの機会」なのだと謙虚に言っている。それは他者によって自分の身の程を知ったり、自分を修正する機会なのだ。それはiPodの社会的な機能と言えるだろうが、これはアメリカだから言えることかもしれない。日本でiPodはこの国のマニュアル化されたコンビニエンスなシステムと安易にシンクロしているように見える。

とはいえ、音楽によるコミュニケーションの可能性は確実に開かれている。すべては「使いこなし」にかかっているのだ。私はiTunesの見せっこはしたことがないが、よくメールにyoutubeの動画のURLを貼り付けて話のネタにする。そうすると意思疎通がスムーズになる。本当のことを言えば、プレイリストを見ただけで、相手がどんな人間なのかわかるはずがない。音楽的な共感は重要なインスピレーションになるが、言葉の介在も不可欠なのだ。音楽の素晴らしいところは、共感と言葉の双方の回路によって、その相乗効果によって繋がりあえることだろう。


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2011年12月12日

Radiohead "OK Computer"

O.K. ComputerRadiohead が何年のデビューでどういう流れを汲むグループで、とか、これが何枚目のアルバムで、この時代は音作りがなんちゃらだから云々…的な音楽通のコメントはわたしにはできん。とにかく、眠気もピーク、心の荒み具合もピーク、…いまどきノーエアコンの住環境で暑さ寒さもピーク(ちょっぴし生命に危険すら感じるし〜)…そんな極限状態の深夜労働の脳と身体に、コレが効くのだ、沁みるのだ。

このアルバムが出たの1997年。日本では若者の間でピッチ(PHS)がブームで、数十文字のメッセージをカタカナで気軽に送れて「画期的よね♪」ってな時代ですよ、あぁた。インターネットなんてまだまだ一般に普及しておらず、「コンピューター」というものに脅威や違和感を感じることができたおそらく最後の(?)時代ですよ。そのせいかどうかは不明ですが、まるで日進月歩のハイテクワールドや電光石火に流れゆく現代人の時間に抗うかのように、このアルバムはどの曲もぜんぜんピコピコっとしていないのだ(*ピコピコ←流行の電子音ばりばりの軽快なテクノポップサウンド的ミュージックを思い浮かべてくだせえ)!うーん、タイトルは“OK Computer”なのにぜんぜんコンピューターぽくないっ! だいたい“OK Computer”って意味もよくわかんないけどさ?

いくつかの曲でシャンシャンシャン…と小気味よく入る鈴のような音なんて、こりゃもうローテク感たっぷり(褒めてるんだ!)。わたしゃあ図らずも、保育園のお歌の時間に、「ジングルベール!ジングルベール!…… ほら!みんなが大きな声で歌うからサンタさんのそりが近づいてきましたよぉおぉお!!」とハイテンションに叫ぶ保母さんが、背後に回した手に隠し持った鈴を必死こいてシャンシャン振っていたのを思いだしましたよ(クラスメートの半分以上は気がついてたんだよ、せんせ…)。いやぁ、こんな音を秋以降に聴いちゃったら、ちょっとしたクリスマスソング気分だわね。特に5曲目の Let down なんか、シャンシャンと優しく繰り返される音が、まるで街にしんしんと降りつもる雪のよう。やーん、ラブリーちゃんとのハッピーなホワイトクリスマスのデート気分を(殺風景な仕事部屋で)イリュージョンして独り遊びしちゃうぅぅぅ〜。

トム・ヨーク すべてを見通す目(単行本)…しかしながら、ひとたび歌詞に耳を傾けてみると、けっこうイメージが違うのである。アルバム全体の流れとしては、おおまかに 【1. 世界への違和感・慟哭】 「たすけてくれ〜!オラぁもうだめだ〜!」→ 【2.やけくそモード】 「いーよいーよ。もぅ落ちるとこまで落ちますから」→ 【3.諦念・悟り】 「だけどオレら、なんとかかんとかこんな世の中やり過ごすんだよね」…である(わたしの解釈は間違っているかもしれんが、そんなことは知らん)。これを一晩中ノンストップで部屋中に響かせてご覧なさいよ。もう脳みそが眠ってる暇なんかないですよ。

わたしはトム・ヨークの声が好きだ。あの絞るような、ちょっと普通の精神状態すれすれな感じの危うい声がたまらん。痛みや官能に不意をうたれてつい出てしまった声や、無垢な赤ん坊がこちらの予想外にあげる歓喜の声なんかに共通する、一種のエロティックさを感じてしまう。三省堂神保町店の音楽本コーナーに行くたびに、ひそかに『トム・ヨーク すべてを見通す目』(シンコーミュージック)をぱらぱらしては買おうかどうか悩んでいることもここに告白する。

O.K. Computer
O.K. Computer
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□初出2011年1月19日



Mlle.Amie

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ラベル:Radiohead
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2011年12月09日

ロリー・ギャラガー『ライブ・イン・アイルランド’74』

今年の一枚、それはやはり、あえてロリー・ギャラガーの『ライブ・イン・アイルランド’74(別名アイリッシュ・ツアー)』にさせてください。IRAのテロが各地で暴発する70年代中期、誰もこわがってライヴを開催しなくなったアイルランドの街々で、<あえて>ツアーを敢行し、その音源のみを収録するというココロ意気、アイルランド兄ちゃんロリーのロック魂にふるえました。



新譜に、「コレ」というのが見当たらない、というか、新譜は曲ごとにダウンロードする、という世の趨勢とも異なり、「おしなべて最近のロックを聴かなくなった」(というかロリー・ギャラガーを発見してしまったら他のオンガク全部が耳に入らなくなった)という一種病的な状態にはまり込んでしまっています。ロリーのいたテイストもいいですよね。活動期間が短く、惜しいバンドでした。


ライヴ・イン・アイルランド(紙ジャケット仕様)
ロリー・ギャラガー
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□初出2009年12月23日

奈落亭凡白

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2011年12月03日

「西洋音楽史 - クラシックの黄昏」

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)中公新書の古色蒼然とした表紙に、「西洋音楽史」というタイトルがつけられていると、これだけでも読む気が失せるという人もいるかもしれない。しかし副題の「クラシックの黄昏」に注目しよう。

これまでの「西洋音楽史」と銘打った本の多くは例外なく、各時代の専門家による分担執筆だった。これらは専門家に対して正しい専門的な知識を万遍なく提供するだろう。しかし、様々な関心やつながりからクラシックについて知りたいと思っている普通の人、例えば、「のだめカンタービレ」を読んでクラシックに興味を持った人が、それを理解できるだろうか。理解できる、できない以前の問題として、そういう「使えない」音楽史に意味があるのだろうか。ある種の正しさはあるかもしれないが、ナンセンスな専門知識ではないのか。そういう問いが著者をしてこの本を書かせたようだ。

「事実に意味を与えるのは、結局のところ、<私>の主観以外ではありえず」、「歴史を語ることは常に<私>との対話なのである」と著者は言う。つまり、絶対的なクラシックのあり方、正しいクラシックの聴き方などありえない。聴く人それぞれの関心があり、それぞれのクラシックがあるということだ。この本の形式は「私はこういうふうに考えました。あなたはどうですか」という問いかけである。もちろん著者のような研究者が書くのと、素人が書くのとでは情報量や正確さに差があるだろう。しかし、それは「正しい西洋音楽史」を読者に注入しようという態度ではなく、「私が提示した情報や考え方をもとに、あなたなりにクラシックを楽しみ、考えてください」と読者にボールが投げられている。そして読者はそのボールをどこかに投げ返すことが期待されているのだ。

シューマン:交響曲第4番 バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音)

これまでの「西洋音楽史」は、クラシック以外の音楽ジャンルに言及することはなかった。なぜなら、他の「低俗な音楽」を排除し、それと区別することで権威のある高尚な音楽として自らを位置づけていたからだ。それゆえに、クラシックが現在どのような形で聴かれているのか、他のジャンルとはどのような関係にあるのか、というクラシックの置かれている社会的な、同時代的な条件が全く無視されていたのである。この本が興味深いのは、クラッシク以外の音楽に触れていること、そしてクラシックの現在に対するシビアな認識と、いかにクラシックが生き残るかという未来について言及されていることである。これまでの西洋音楽史においてクラシックは不朽のものであり、「黄昏」や「危機」とは無縁だったのだ。

今日のクラシックのレパートリーのほとんどは19世紀後半から20世紀初頭にかけて確立されたものだが、20世紀後半に入ると、人々の関心は誰が何を作るか(つまり現代音楽への関心)から、誰が何を演奏するかに関心が決定的に移ってしまった。しかし、今では名曲のレパートリーの決定版はほとんど出尽くしており、巨匠の時代も去り、ネタ枯れの気配が濃厚だ。またクラシックの進化形である前衛音楽(=現代音楽)を支持する公衆はもはや存在しない。100年前に作られたシェーンベルクの作品から、戦後の前衛音楽に至るまで演奏会のレパートリーに定着した作品は皆無で、現代音楽は公式文化から一種のサブカルチャーと化している。しかし、著者はそれをことさら嘆かない。それどころか「もし前衛音楽にまだ可能性があるとすれば、それはサブカルチャーに徹することを通してのみ可能かもしれない」とまで言う。これは文学などのハイカルチャー全般にも通じる本書の最も重要な指摘である。

マイ・フェイヴァリット・シングス(+2) ラバー・ソウル

私たちはクラシックと他の音楽の同時代性についてあまり注意を向けないが、確かにそれらは明らかに同じ時代の空気を吸った産物なのだ。例えば、フルトベングラーが没した1954年に、エルヴィス・プレスリーがデビュー。翌、1955年にはグレン・グールドが「ゴルトベルク変奏曲」で鮮烈なレコードデビューを果たし、ジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・クインテットに参加する。ジョン・ケージが初来日した1962年にはビートルズがレコードデビューしている。

Kind of Blue Django

クラシック以外では、著者はとりわけモダン・ジャズを評価する。モダン・ジャズは娯楽音楽の域を超え、一種の芸術音楽の路線を歩んだ。前述のマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、そしてMJQにおいて即興は見せかけにすぎず、演奏はその細部まで緻密に計算されている。マイルスのモード・ジャズにはフランス印象派を連想させる旋律が現れるし、コルトレーンのポリリズムはストラヴィンスキー並の複雑さなのだ。それだけではない。モダン・ジャズは、20世紀後半において、「作曲上の様々な実験」と「過去の伝統の継承」と「公衆との接点」との間の媒介に文句なしに成功した唯一のジャンルなのである。公的な支援を受けず、独自の力であれほどの表現に到達し、あれほどの支持を集めたことは、クラシック以上の成果であり、ほとんど奇跡に近い現象とも言える。この事実に先ほどの「サブカルチャーに徹するしかない」という提言が反響するのである。

Glenn Gould ‐ Goldberg Variations
John Coltrane - My Favourite Things
Miles + Coltrane - So What

かつて「作曲上の様々な実験を試みること」、「過去の名作を立派に演奏すること」、「公衆にアピールする曲を書くこと」は決して分離した活動ではなかった。例えば、フランツ・リストは時代の最先端を行く作曲家であり、ベートーベンを演奏する巨匠ピアニストであり、現代のロックスターに比されるような人気アーティストだった。
(続く)

先回、フランツ・リストが三拍子そろった音楽家だったと書いたが、3つの要素のバランスが崩れ、いずれかが突出するようになると、たちまち批判の対象になる。前衛作曲家のように作曲上の実験にこだわりすぎると、「公衆を置き去りにしたひとりよがり」と言われ、クラシックのレパートリーばかり演奏していると、「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」と言われる。そして一般受けを狙い、人気が出ると「公衆との妥協」とか「商品としての音楽」と言われる。しかし、これらは19世紀になって花開いた音楽の可能性がもたらした結果なのである。音楽家はパトロンの好みに束縛されることなく、自分の好きなように音楽を書き、過去の音楽を次々に発掘することでレパートリーが著しく拡大し、楽譜の普及や演奏会制度の発達によって多くの人々が音楽を自由に演奏し、音楽と接点を持つことができるようになったのである。

「現代(前衛)音楽がサブカルチャーに徹すること」のは難しいだろうが、いわゆる「過去のレパートリーを再演するクラッシク」も一種のサブカルチャー化によって生き延びようとしている。「のだめカンタービレ」もJ-Classicも、サブカルチャー化による生き残り戦術である。J-Classicは、日本人演奏家によるクラシック音楽、特に伝統的な枠を超えた新しい試みに積極的な若手アーティストたちによるクラシック音楽のことだが、まさに「名曲のレパートリーの決定版がほとんど出尽くし、巨匠の時代も去り、ネタ枯れの気配が濃厚」な状況で、レコード会社が仕掛けたものだった。J-Classicはアイドル歌手のように演奏家のヴィジュアルを前面に出す戦術で知られているが、それは明らかにポピュラー音楽からの流用である。

しかし、すでに20世紀の前半にすでにテオドール・アドルノが「クラシックをヒット曲のように、指揮者をスターのように扱う」と商品化したクラシックの堕落を嘆いている。著者は、ポピュラー音楽の大半は、特に旋律構造や和声や楽器の点において19世紀ロマン派の音楽を踏襲し、宗教なき時代に「市民に夢と感動を与える」というロマン派的美学を引き継いでいるというが、一方でクラシックは明らかにポピュラー音楽の資本主義との親和的な側面を取り込んできたのである。従来のクラシックを聴く重々しい身振りは失われていくかもしれないが、それによって新しい聴衆にとっかかりを与えてきたのも事実である。

この問題を文学で考えるとき、ハーバーマスが公共性のモデルと考えた「文芸的公共圏」が思い出される。印刷技術と資本主義の発達によって、文学作品のラインアップが廉価版でそろい、多くの人々が文学に親しめるようになった。そして文学は議論を通して、より多くの人々をつなぐ重要な媒体として機能していたのである。一方で音楽家がパトロンから自立できたように、小説家は、新聞や雑誌などのメディアを利用し、自分の小説を売ることで自活できるようにもなった。

20世紀に入ると、そういうモダンな公共性に反旗を翻す形で小説的な実験が進む。そしてヌーボー・ロマンやメタ文学のようにひとりよがりな表現の隘路にはまり、ごく一部の言論空間でしか理解されないものになる。現状はどうだろう。大学の文学研究は相変わらず「過去の聖遺物」だけを対象にしているし、若い小説家たちは新しいかもしれないが、多くの人には共有されない個別的な状況を描く。一方でケータイを活用したケータイ小説や、アニメから派生した萌え系の新しい文学が生まれている。それらには相互的な接点や関心の共有もなく、島宇宙化している印象を受ける。幅広い関心の共有や共通感覚の媒体になりうるのは、今は文学よりも映画なのかもしれない。

BGM Reich Remixed

「生活世界の再帰的構成に必要な価値合意は、ハーバーマスの考えるような理性的な討議によってあたえられるのではなく、芸術やサブカルチャーなどの表現を通じて滋養されるコモンセンス=共通感覚に基づく。そのことは未だに古典的主題を反復するフランスやイタリアの小説や映画を見ているとよくわかる」(宮台真司、「ネット社会の未来像)」より)

宮台真司は「芸術やサブカルチャー」と言っているが、とりわけそれは映画である。宮台は古典的主題を反復する映画監督として、フランスのフランソワ・オゾン監督を持ち上げる。彼の作品は「表層的な見せかけに右往左往せずに、真の心を見極めろという伝統的なモチーフ」の変奏だと言うが、不知火検校さんが偶然にもクリント・イーストウッドについて、こんなことを書いてくれている。

「決して一作でそのテーマを解決させることはなく、飽きることなく繰り返しながら、イーストウッドはその問題に挑み続けているのではないだろうか。「本質的な思想家は唯一つの問題にだけ立ち向かう」とはハイデガーの言葉だが、まさにイーストウッドの新作映画は常に一つの「思想」として観客の前に到来してくる。このような映画が商業映画として大劇場で上映されているという事態は、100年を超える映画史の上でも奇跡的なことではないだろうか」(「パリで観るクリント・イーストウッド」)

まさにクリント・イーストウッドはフランツ・リストのような3拍子揃った映画監督なのである。古典的なモチーフを反復しながらも、新しい映画であり続け、同時に商業映画として多くの人々を動員するという離れ業をやってのけているのだ。

94diskont Leichenschrei

再び音楽の話に戻るが、「現代音楽(前衛音楽)がサブカルチャーに徹する」以前に、すでにロックが現代音楽のサブカル化の役割を果たしてきた。「ロックはスポンジのようなものだ」と言ったのは、現代音楽と接点を持つ環境音楽の創始者、ブライアン・イーノだった。ロックは表現として柔軟性を持つと同時に、メディアとの親和性が高く、特に若い世代への伝染力が大きい。音楽テクノロジーの進歩を真っ先に取り込んでしまうのもこの分野である。ロックが現代音楽的な実験を取り込みながら、ポピュラリティーを獲得することに成功した例として、70年代のプログレッシブ・ロック、80年代のノイズ・ミュージック、90年代の音響派が挙げられる。ミニマル・ミュージックの大御所、スティーブ・ライヒなんかは、ダンス・ミュージックのコンテクストで再評価されている。

以前、「サントリーローヤルCM-ランボー編」でセゾングループが果たした80年代の文化的な役割について触れた。80年代のパルコ=セゾン文化は企業家=詩人であった堤清二によって仕掛けられたわけだが、「大衆消費社会を批判する前衛文化を、大衆消費社会の担い手である流通産業が積極的にフィーチャーしてみせる」という「矛盾を孕んだ文化戦略」と浅田彰がセゾングループの功罪を評している。浅田は矛盾と言っているが、企業家と詩人は共存しえたのである。

それと併走していた音楽シーンを挙げるなら、80年代には豊穣なインディーズシーンがあり、メジャーシーンでは「BGM」をリリースし、実験色を強めた YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)だろうか。何よりも坂本龍一が象徴的な存在だった。YMO が共振させたものは音楽にとどまらず、ファッションやアート、そしてマイナー文学や現代思想にまで及ぶ。音楽の前衛的な実験が、資本主義と決して矛盾することなく、むしろそれを逆手にとるように親和的に進められ、他のジャンルに波及しながら多くの若者の支持を集めたのである。先回言及したモダン・ジャズには及ばないが、これも3つの要素が奇跡的にかみ合った時代の偶発事と言えるかもしれない。浅田の言う「大衆消費社会を批判する前衛文化」とは先のアドルノの思想そのものだが、堤清二は「消費を通じての啓蒙」を実践した。同じ左翼系でも全くベクトルが逆だったのである。


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2011年11月30日

Lhasa “I’m going in”

Lhasa2010年の始まりの日に37才で他界した Lhasa(ラサ)のこの曲を選んでみました。
 
乳がんを告知されてから約2年。繊細さと土の香りが同居する独特の声と英語、フランス語、そしてメキシカンである父の言葉であるスペイン語によるユニークな歌世界が評判を浴び、モントリオール発の新しい才能として世界的に知られるようになった矢先の死でした。
 
亡くなる前の年にリリースされたサードアルバムに収められているこの曲で、Lhasaは、遠からず訪れる自分の「死」について率直に歌っています。嘆きでも、お別れの歌でもありません。「生」の世界から、未知の「死」の世界へ向かうことを前向きに捉えています。自分を囲む人々の事を切り捨ててしまった訳ではない。しかし、今の私は旅立つ事に心を傾けたい、と。たんたんとしていて、それでもこちらの顔をしっかり見ているような歌声に、はっとさせられます。
 
この曲のことを教えてくれたのは、同じカナダのシンガー・ソングライター、ルーファス・ウェインライト。彼は今年1月に最愛の母、ケイト・マクギャリグルを病で失っていますが、この曲を聴いて死に引き寄せられつつある母の立場がどんなものかを感じることができた、とインタビューで語っています。家族の事を思ってか、「死」について口にせず「生きる」ことに前向きな姿勢を取り続けていた母の、表に現れない内面について思いを巡らせることができたのは、この曲のおかげだと。

世の中が、当然の事のように、2011年へと脇目もふらず突き進む今このときに、Lhasaが残したこの歌を聴くと、違った景色が見えてきます。

“Don’t ask me to reconsider
I am ready to go now”

http://youtu.be/6CEjujV8FtM

□初出2010年1月



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2011年11月28日

ATOLL "ARAIGNEE DU MAL"

今回紹介するのは、「フランスのイエス」と呼ばれたアトール Atoll(=環礁の意)。彼らのセカンド・アルバム『夢魔 L'araignée-Mal 』はフレンチ・ロックの傑作として今も語り継がれている。アルバムの聴きどころは、タイトルにもなっている組曲「夢魔」。4楽章(?)構成で21分に及ぶ。タイトルの原義は「悪の蜘蛛」。ボードレールの Les fleurs du mal からインスパイアされたのだろうか。ロックバンドの構成にバイオリンが加わり、サウンドに決定的な色合いを与えている。ちょっとオカルティックな始まり。美しくも不安をかきたてるようなバイオリンの先導によって徐々にテンションが高まっていき、やがて視界が開け、高原状態に至るような曲の展開がなかなか良い。フランス語のボーカルも違和感はない。



アルバムには Cazotte No.1 というフュージョンの傑作も収められている。前のアルバムからメンバー・チェンジがあり、テクニック的にも格段に向上し、高度なアンサンブルと白熱したインタープレイが可能になった。タイトルは、幻想小説の先駆者と言われ、「悪魔の恋」(学研M文庫『変身のロマン』に収録)という作品で知られるフランスの18世紀の作家、ジャック・カゾット Jacques Cazotte から来ているのだろうか?ボードレールといい、カゾットといい、プログレは文学ネタにも事欠かない。

アトールを「フランスのイエス」と紹介したが、フランスでそう言われていたわけではなく、日本で紹介されたときの便宜的な呼称だったのだろう。実際、アトールとイエスは似ても似つかない。イエスは、聴けばイエスだとすぐにわかる、誰も真似ができない孤高の音世界を作り出してきたし、アトールに関して言えば、セカンド・アルバムの時点で理想的なメンバーとアイデアが偶発的に結集され、一瞬のひらめきのような作品を生み出した。


組曲「夢魔」
組曲「夢魔」
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アトール
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おすすめ度の平均: 5.0
5ユーロプログレを代表する名盤
5ユーロロックのひとつの到達点
5驚愕の1枚
5聞き応えのあるフレンチプログレ



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2011年11月23日

DIMITRI FROM PARIS "Sacré français"

世界を飛び回るフランスの人気 DJ、Dimitri From Paris。まずは彼の歴史をさかのぼって、Sacré français の PV (1996年)を見てみよう。

−Vous dansez, mademoiselle?  お嬢さん、踊りませんか?
−Sacré français!  変なフランス人!
−Je ne suis pas celle que vous croyez!  私はあなたが思っているような女じゃないわ



マドモワゼルを追いかけるのは、ベレー帽にボーダーシャツの男。フレンチカジュアルの定番だ。ボーダーシャツは、セイント・ジェームスとかアニエス・ベーを思い出させるアイテム。ちょび髭のストーカー男はどうやらディミトリ本人のようだ。マドモワゼルはパリじゅうを逃げ回り、それがパリの名所巡りみたいになっている。切り絵のようなかわいいアニメーションだ。

この曲はファースト・アルバム「Sacré Bleu」に収録されているが、オリジナルのジャケットはマドモワゼル&変なフランス人がフィーチャーされたデザイン。一方、日本盤のジャケ(サクラ・ブルーと日本盤では書かれているがサクレ・ブルーが正しい)は日本のアニメ・ロボット風のデザインになっている。

ディミトリは日本フリーク、とりわけアニメのスーパーロボットのコレクターとしても名を知られている。「UFOロボ・グレンダイザー」がフランスのテレビに登場した時、ディミトリ少年はその美学、色彩、グラフィックに釘付けになった。その後、パリで偶然見つけたマジンガーZのロボットはフランスでは放映されておらず、「一体どんな話なんだ?」と想像を掻き立てられた。やはり70年代製のロボットが面白いようで、ガンダムに代表される第二世代のリアルタイプは洗練されているが、グラフィックとしてはつまらないと言う。彼の部屋には3Dのウルトラマンの絵が額に入れて飾られ、棚にはロボットと超合金があふれ、アニメソングのコレクションの充実ぶりも凄い(彼の部屋の様子は、BRUTUS・2000年9月1日号を参照、少し古いが)

THE REMIX FILESもともとグラフィックに興味があり、日本のアニメのロボットを集め始めたのもそれが理由だった。下にリンクを張った Une very stylish fille (=A very stylish girl)のビデオクリップも広告のポスターに動きを与えているようなグラフィック仕立てで、グラフィック・マニアならではのセンスを感じる。

Sacré Bleu に続き、2003年に出た2枚目のオリジナルアルバム「クルージング・アティテュード Cruising Attitude 」は相変わらずラウンジーなフレンチハウスだが、元ピチカート・ファイブの野宮真貴が「メルモちゃん」(9.Merumo)を歌い、水木一郎をフィーチャーした「マジンガーZ」のカバー曲(13. Bokura No Mazinger Z) [Black Version]も収録されている。

また2004年には自分のヒット曲 Love Love Mode のセルフパロディとして、声優の声をサンプリングした「Neko Mimi Mode」を、アニメ「月詠」の主題歌として提供。「萌え系ラウンジ」と呼ばれているらしい(笑)。超オシャレなフランス的なセンスと、どっぷりジャポネな萌えのセンスが同居する稀有なキャラだ。

一方で Yves Saint Laurent、Chanel、Jean Paul Gaultier 等からショーの DJ として指名され、音楽制作と楽曲提供を行っている。またリミキサーとして手がけたアーティストは150組以上。このような傑出した創造性と文化への貢献認められ、05年2月に DJ としては世界初、フランス芸術文化勲章「Chevalier」を受章している。

最新の動向としては、今月(2011年11月)自身初となる REMIX WORKS 集"THE REMIX FILES"を発表した。

★PV from Youtube
Dimitri From Paris / Une very stylish fille
Dimitri From Paris / Bokura Mazinger Z

★ALBUMS
Sacré Bleu
Cruising Attitude
「月詠-MOON PHASE-」BEST COLLECTION



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posted by cyberbloom at 09:57| Comment(0) | FRENCH ELECTRO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

Juliette Gréco “Accordéon”

冬の始まりに、シャンソンを選んでみました。若きセルジュ・ゲンスブールの作。哀愁のメロディーに軽快なアコーディオン、といかにもフランスでなければ出せない音で音楽としてだけでも楽しめるのですが、歌詞カードを見ながら聴くともっとおもしろい。

greco01.jpg街を流して歩くアコーディオン弾きが相棒のアコーディオンと別れるまでの歌です、というとなんだかセンチメンタルに聞こえますが、これが実にサツバツとしています。

まず、この歌のアコーディオン弾きは、生きるためにきゅうきゅうとしている。演奏するのはパンを稼ぐためで、路上であっても自分の音楽を思うがままに演奏できればシアワセ、というハッピーなストリートミュージシャンとはほど遠い。

アコーディオン弾きと楽器との間もきれいごとなしで生々しい。へべれけの時も、豚箱に放り込まれる時も一緒。「楽器のボタンを壊してしまったら上着のボタンを取って間に合わせ、ズボンがずり落ちないように楽器のベルトを拝借したりする」というフレーズは、楽器と人とのいい関係というより、長年連れ添った男女の仲のような生身の近しさを感じさせます。

だからこそ、別れのそっけなさには驚かされます。ある日突然、ただ同然で古道具屋に売り飛ばされるアコーディオン。弾けなくなったかららしい、というぐらいしか理由は明らかにされませんが、この「急転」が歌を深いものにしています。どんなに濃いつきあいも、思いがけなく終わりが来るもの―そんな醒めた感じが、いかにもゲンスブールらしい。

一方で、やさしい情景も織り込まれています。「静かな夜が過ぎて朝がくると、アコーディオン弾きはアコーディオンの肺を少し膨らませてやる」というフレーズは、白く明けてゆく街角で独り小さく音を鳴らす男の姿を描くだけでなく、男とアコーディオンとの静かな対話を見守るゲンスブールのまなざしを感じさせます。

お得意のコトバ遊びも光ります。「どうぞアコーデオンにお恵みを(“Accordez Accordez Accordez donc / l’aumône à l’accrodé l’accordéon”)」というリフレインは、フランス語の「アコーディオン」の音とダブるようにしつらえてあります。こういった離れ業をさらっとやってのけるところも、にやりとさせられます。

コンパクトで密度の濃い曲なので、グレコのように気を入れて歌わないと上手くいかないようです。

http://youtu.be/0ca5e_DF12Y



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ラベル:Juliette Gréco
posted by cyberbloom at 22:31| Comment(0) | CHANSON | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月19日

HELDON "RHIZOSPHERE"

シングル・コレクション1972-1980(SINGLE COLLECTION 1972-1980)今から40年ほどさかのぼる五月革命の1968年前後、当時高校生のリシャール・ピナス Richard Pinhas はブルースに興味を持ち、ブルース・コンヴェンションというグループに参加していた。グループには後にマグマ Magma のメンバーになる、クラウス・ブラスキーズがいた。その後、彼はソルボンヌ(パリ第4大学)に登録し、哲学の勉強を始める。それと平行してスキゾ Schizo というグループを結成。スキゾは72年にシングルを録音するが、自身の博士論文が忙しくなって同年に解消する。そのシングル« Le Voyageur/Torcol » (写真のアルバム「SINGLE COLLECTION 1972-1980」に収録)でニーチェのテクストを朗読するジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze の肉声を聴くことができる。下の動画で試聴できるが、68年のモノクロ映像を背景に使った粋な演出だ。



ピナスはドゥルーズの講義を受け、思想的に大きな影響を受けている。リゾスフィア組曲 Rhizosphere suite など、彼の曲のタイトルにもそれが伺える。一方、彼の博士論文の指導をしたのは『ポスト・モダンの条件』で知られるジャン=フランソワ・リオタール Jean-François Lyotard で、彼の指導のもと「スキゾ分析と SF の関係」というタイトルの博士論文を書き上げている。

リゾスフィア(RHIZOSPHERE)(紙ジャケット仕様でリマスター)(PAPER SLEEVE)

博士論文のタイトルからも察せられるように、SFに深い関心を抱いていたピナスは73年にロサンジェルスでノーマン・スピンラッド Norman Spinrad と初めて会う。彼にフィリップ・K ・ディック Philip K. Dick を紹介され、「マガジン・アクチュエル Magazine Actuel」にディックのインタビューを掲載する。74年、ピナスはエルドン Heldon を結成。グループの名前はスピンラッドの小説『鉄の夢 The Iron Dream』に出てくる都市にちなんでつけられた。

ピナスの論文の中身はわからないが(ソルボンヌの図書館に行けば読めるだろう)、ディックはまずフランスで評価されたという経緯がある。また、東浩紀が「サイバースペース」(in『情報環境論集』)の中で、ディックが小説の中で描いていた分裂症的コミュニケーションがドゥルーズ&ガタリと共鳴していることを指摘している。

Stand Byギターの音を聞けば一目(一聴)瞭然だが、リシャール・ピナスはキング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップから大きな影響を受けている。しかしエルドンのサウンドは、クリムゾンのようなグループによるジャズロックというよりは、ギターとシンセサイザーを使った実験性の高い音楽だった。フリップはかつてフィリッパートロニクスというオープンリールテープレコーダーを使った独自のディレイ・システムを使っていたが(最近では Windows Vista のサウンドを担当)、ピナスのギターはフリップのギター奏法やサウンド・エフェクトの影響を受け、とりわけフリップの音楽のヘビーメタリックな質感を受け継いでいる。ジャケットはベストな1枚といわれる"Stand By"。

HELDON - STAND BY(試聴)



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ラベル:heldon Deleuze
posted by cyberbloom at 11:30| Comment(0) | FRENCH ROCK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月15日

Jessye Norman “Je te veux”

Jessye Norman - Classics言わずと知れた、エリック・サティーの名曲。もはやミューザックの定番。メロディーを聞けば「あ、知ってる」と言われるような耳馴染みの曲となり、歌もの、インストゥルメンタルといろんなタイプの演奏があるのですが、個人的に大好きなのはソプラノ歌手、ジェシー・ノーマンのもの。

本来のこの曲は、喧噪と紫煙の中、アダっぽい女性がさっと歌うような、フランス小唄なのだと思います。歌詞もあからさまではないけれど、淫らな空気を漂わせている。だから、オペラチックに歌い上げるのは似合わないし、あまりお行儀良く可憐に歌われてもピンとこない。だからといって、あまりコケットを強調しすぎると、曲が壊れてしまう。サティーのメロディは、歌謡曲のそれのたくましさは持ち合わせていない。どうやっても上品、なのです。明るくて馥郁とした色香があって、下品に落ちない。歌い手にはなかなか手強い曲なのです。
 
ジェシー・ノーマンは場末のカフェなんぞ全く似合わない雰囲気のベテラン正統派ソプラノ歌手。上品なのはもちろんですが、フェミニンを強調しないゆたかな声であるのもプラスに働いています(コンサートでシューベルトの『魔王』を歌ってしまうようなひとなのです)。そして、何よりも印象的なのが彼女の歌いっぷり。もともとたっぷりとした容姿のひとなのですが、いつもの貫禄を忘れて、目の前の愛するあなたを食べちゃいたい、てな勢いではじらいと余裕が入り交じったふうにに歌うとき、この歌の持つ官能性がさらに清らかな甘さに昇華されるように思います。スタジオレコーディングではなく、ぜひ、コンサートの映像をご覧あれ!

□きれいな映像ではありませんが、こちらでどうぞ。
http://youtu.be/yEC-qikckCY



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posted by cyberbloom at 19:25| Comment(0) | VARIETES FRANCAISES | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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